山中鹿之助

山中鹿之助(鹿助)の尼子再興のための戦いを分かりやすく解説

山中鹿之助はかなり名の知れた武将ですね。

「我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈っていたエピソードが有名です。

また山中鹿之助が主家尼子氏再興のために、何度でも立ち上がる生き様も知られています。

しかし実態はどうだったのでしょうか?

このコンテンツは山中鹿之助についての本当の姿を追い求めて執筆いたしました。

中国地方の覇者毛利氏と、どう戦ったのでしょうか?

厳しい戦いもわかりやすく記しましたので、是非ご覧ください。

このコンテンツを読んでいただき、それぞれ鹿之助の実態を思い浮かべたり、評価をされたらいいと思います。

なお山中鹿之助の名前は「鹿介」が正しいですが、「鹿之助」の方でしっている方が多いため、このコンテンツでは「鹿之助」で統一しました。

なお解説は兵法の大家、諸葛孔明さんにお願いしました。

諸葛孔明

皆様、よろしくお願いいたします。

山中鹿之助の尼子再興のための戦い

山中鹿之助には尼子の血が流れていた

山中鹿之助は天文14年(1545)8月15日に、月山富田城の北麓にある新宮谷の山中屋敷で山中満幸の次男として誕生したとされています。

しかし鹿之助の幼少期に関する明確な情報が記載されている資料がなく、少々ずれているかもしれませんね。

鹿之助の4代前の祖先山中幸久は、当時の尼子清定の弟で、兄の勘気を被り布部山に幽閉されて、長禄2年(1458)正月11日に幽死しました。

なんと鹿之助には尼子の血が流れていたのです!!

生まれた時から山中鹿之助には尼子再興のための戦いは、運命だったのかもしれません!

ちなみに父山中満幸の頃は、一門衆ではなく、譜代の重臣として位置づけられていたようです。

この鹿之助の父満幸は、天文15年9月20日に27歳で他界しました。

鹿之助が僅か2歳の時です。

そのため大変貧しい生活をしたという話がありますが、それでも逞しく育っていきます。

なお、鹿之助には色んな逸話があります。

・生まれて数か月で既に4~5歳の小児の如く、2、3歳になると、智勇群を超えていた(飯田忠彦の野史、嘉永5年)

・8歳で人を斬り、10歳の時に従軍して敵の首をあげた(前田時棟の山中鹿介伝)

ちょっとこれは・・・・・・

ま、まあ、一際目立つ子供だったのでしょう!

父亡き後山中家は長男甚太郎幸高が継ぎましたが、生来病弱だったため、鹿之助に家督を譲りました。

ここで山中鹿之助といえば必ず出てくる三日月信仰、「我に七難八苦を与えたまえ」という、三日月に向かって祈りを捧げたという話がでてきます。

しかし実際には以下の文言が正しいようです。

今日より30日の内に、武勇の誉を取候やうにと、三日月に立願(りゅうがん)せり

(今日より30日以内に立派な武功をたてることができますようにと祈った)

甫庵太閤記

どちらが正しいにせよ、山中鹿之助という武将の強い決意が伝わってきますね!

さて、鹿之助の決意は、主君尼子義久が伯耆尾高城を攻めた時に発揮されます。

16歳になった鹿之助は近習として従軍しましたが、因幡に隠れもなき豪傑と評される「菊池音八」を討取ったのです。

余程武芸が優れていたんでしょう!

後年の活躍がうかがえますね!

主家尼子氏の滅亡

永禄5年(1562)、岩見を平定した毛利元就がいよいよ尼子氏の本拠のある出雲に侵攻してきました。

毛利氏は厳島の戦いに勝ち、防長を制圧し、勢いに乗っています。

それに対して尼子氏は毛利氏との郡山合戦から始まる合戦での連敗、元就の謀略に引っかかって、尼子一族の大きな力となっていた新宮党の粛清等で衰弱していました。

諸葛孔明

元就殿らしい凄まじい謀略。厳島の戦いの勝利も、半分はこの謀略の力によるものといって過言ではないでしょう

永禄6年(1563)8月13日、毛利元就は1万5千の兵で白鹿城(尼子十旗という月山富田城を守る支城の一つで最重要拠点である)を攻撃しました。

緑色  白鹿城

黄色  月山富田城

尼子軍は約1万の兵で救援に向かいましたが、もろくも敗北、鹿之助は殿をつとめます。

その際数百の兵で毛利の大軍の激しい追撃を撃退したといいます。

ちなみにこの時鹿之助は19歳、山陰の麒麟児と評された実力の片鱗がうかがえますね。

しかし白鹿城は落城、月山富田城は毛利軍3万余の兵で囲まれます。

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月山富田城跡

永禄8年(1565)4月18日、毛利元就は総攻撃を開始します。

毛利軍の攻撃は激しかったですが、この時はまだ尼子方も力が残っており、毛利の攻撃を跳ね返しました。

この籠城戦の中で鹿之助は毛利軍の「品川大膳」という豪勇の士と一騎打ちをしたという逸話があります。

この品川大膳(将員)という武将は石見の国衆の益田藤兼の家臣で、由美の達人であったと言われています。

この「品川大膳」ですが、山中鹿之助との一騎打ちのために「棫木狼介」と改名してます。

大膳がいうには、「鹿は棫の若芽を食べると角を落とすものだ。また狼は鹿を取って食う。そこで俺は鹿之助を討取るためにかく改名したのじゃ」と周りに吹聴しました。

この一騎打ち、実は書物によって内容がかなり違い、本当はどう行われたのかは明確にはなっておりません。

ただ各書物の共通事項があります。

・狼介は弓矢をもって一騎打ちにのぞんだ

・鹿之助には助太刀がいた

・狼介は討取られた

・鹿之助もかなりの傷を負った

上記の事は事実だと思われます。

「老翁物語」(寛永元年)では、「名誉の合戦なり」と評されており、正々堂々とした戦いだったことがうかがえます。

その後、月山富田城は毛利軍の厳しい兵糧攻めで、城内の食糧が尽きてきました。

永禄9年(1566)には尼子の将兵は5年にも及ぶ籠城で疲れ果て、また糧食もなく、勝ち目が全くない状況の中で士気が完全に失墜し、城を出て毛利に投稿する者が続々とでてきました。

遂には300人程に将兵は減ってしまったといいます。

この状況から尼子家当主義久は降伏を毛利元就に申し入れ、11月28日月山富田城は明け渡されました。

天空の城と評された難攻不落の月山富田城!

毛利元就と尼子義久では役者が違うということでしょう。

山中鹿之助はこの時僅か21歳、尼子軍を統率できる地位にいませんでした。

相当悔しかったと思います。

でも鹿之助の人生はこれからです。

ここから毛利との真の戦いが始まるのです。

尼子氏再興の戦い

尼子氏の遺児勝久を主君に

永禄9年(1566)11月、山中鹿之助は旧尼子家臣の叔父立原久綱と共に京都にいました。

そこで京都東福寺に新宮党の尼子誠久の遺児がいることを知り、還俗させて「尼子孫四郎勝久」と名乗らせます。

新しい主君の誕生ですね!

山中鹿之助と尼子遺臣の尼子再興の意欲は否が応でも高まったことでしょう。

永禄11年(1568)6月、毛利元就は北九州の大友宗麟と戦っており、「吉川元春」、「小早川隆景」を中心とした大軍を派遣していました。

つまり尼子氏の故国出雲とその周辺は兵が手薄だったのです!

これを逃す鹿之助ではありません。

月山富田城を取り戻すべく出陣しました。

第一次尼子再興軍

山中鹿之助と尼子勝久は尼子再興のため、永禄12年(1569)の春に京都を出発し、故国出雲に入国しました。

尼子氏は山陰の名門、出雲切り返しの檄を飛ばしたところ、たちどころに3000の将兵が集まりました。

諸葛孔明

これは毛利軍の大半は北九州に出兵していて圧力が弱まっていたことと、80余年に亘って山陰を支配していた名門尼子氏のブランド力並びに善政が原因と思われます

出雲に入国した尼子再興軍は新山城を落とします。

山中鹿之助は尼子再興を高らかに宣言し、尼子軍の本陣を新山城に置いたのです。

山中鹿之助

まずは月山富田城周辺に支城を築け!富田城を一気に攻略するのじゃ~

しかし月山富田城城主の「天野隆重」の奮戦により失敗に終わりました。

また、出雲須佐高矢倉城攻め、岩見攻めも失敗。

いいところが全くない鹿之助ですが、「原手合戦」に勝利します。

そして防長では「大内輝弘」が「大友宗麟」の援助で、豊後から上陸し毛利勢を攻め立てました。

毛利元就

うむ、さすがにまずいわい!仕方ない。九州に攻め込んでいる軍勢を呼び戻そう。そうだ。大友宗麟とも講和しよう。後顧の憂いを無くすのじゃ!

機を見るに敏な「毛利元就」は、朝廷幕府を動かして大友宗麟と講和しました。

永禄13年(1570)正月、九州から引き返し体制を整えた毛利軍は「毛利輝元」を総大将として「吉川元春」、「小早川隆景」が補佐して尼子討滅の軍を起こし、25000余の大軍で進撃しました。

尼子軍は連戦連敗で、戦線はどんどん後退します。

そして「布部山の戦い」(「尼子・毛利の国争い今日を限り」と「陰徳記」に評される激戦)で、尼子勢は総軍7000で立ち向かいましたが、両川の巧みな采配により敗れてしまいます。

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布部山の古戦場
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布部山古戦場

山中鹿之助は尼子再興の戦略上、この一戦の前に「月山富田城」を落としておくべきでしたね。

「月山富田城」は少数の兵しかいなかったため、もし総力をあげて攻めれば制圧できたかもしれません。

尼子のシンボル「月山富田城」を落としていれば兵員の動員能力も増え、強力な防衛拠点になると思いますが・・・・

ともかく毛利・尼子の関ヶ原評された「布部山の戦い」の後、尼子方は各地で敗北を重ねて城を落とされ、追い詰められていきました。

この時の毛利方は吉川元春で、尼子方がどう攻撃しても打ち破る名采配を見せました。

吉川元春レベルの名将には、鹿之助の力量では敵わないということでしょうか?

それはともかく吉川元春率いる毛利軍に追い詰められ、とうとう元亀2年(1571)8月に、鹿之助が籠る末石城が攻撃されて落城しました。

山中鹿之助は降伏し、尾高城に監禁されました。

生き恥曝しても生きることを選んだのは、山中鹿之助が尼子再興への「何度でも立ち上がってやる」という固い決意があったに違いありません。

そこで尾高城では鹿之助は赤痢になったといって一晩で百数十回便所に行きます。

番兵は油断し、その隙を見て便所の掃除口から脱出しました。

その後京都に行き、同じように敗走して京都に逃げてきた尼子勝久と落ち合いました。

主従は再起を誓い合ったことでしょう!

まだまだ「山中鹿之助」の尼子再興の志は熱いままであり、次の機会を模索しているのでした!

ともあれ山中鹿之助の第一次尼子再興軍は2年2か月で終了しました。

第二次尼子再興軍

天正元年(1573)になると、織田信長が台頭しました。

山中鹿之助は尼子再興に織田信長の援助を受けようとして、信長に謁見、明智光秀の先陣を命じられました。

その頃山陰では、吉川元春が因幡と但馬を制圧し、ちょうど本拠の月山富田城に帰り、因幡は手薄になっていました。

これを見逃す鹿之助ではありません!

天正元年(1573)12月、山中鹿之助は尼子再興軍を率いて因幡に侵入しました。

鹿之助は桐山城を本拠地にして因幡各地を転戦、尼子旧臣がぞくぞくと集まってきたのです。

当時の因幡は武田高信が治めていました。

山中鹿之助率いる尼子再興軍が籠る飯山城を攻めてきましたが、鹿之助は見事に撃退、本拠鳥取城に敗走した武田高信を追撃して、そのまま鳥取城を攻撃して制圧します。

そして若桜鬼ケ城等を落とし、因幡において着々と勢力圏を広げたのです。

まさに向かうところ敵なしといった状態でしょう!

しかし山中鹿之助の尼子再興軍の勢いもここまで!

天正3年(1575)8月、泣く子も黙る吉川元春と小早川隆景が因幡に攻めてきたのです。

こうなると山中鹿之助と尼子再興軍では歯が立たず、本拠地である若桜鬼ケ城を攻め落とされ、尼子勝久と山中鹿之助の主従は但馬に逃げ落ちました。

但馬での山中鹿之助と尼子再興軍のはっきりとした動きを記した軍記物が無く、何をしていたかは今一分かりかねます。

ただ明智光秀の軍に加わり、但馬八木城攻撃や丹波籾井城攻撃に加わっていたとみられています。

しかし一つだけ確かなものがあります。

それは我らがヒーロー山中鹿之助の不屈の闘魂です!

あらゆる困難に耐え忍び、主家再興に命を燃やすのです。

第三次尼子再興軍

天正5年初頭、遂に織田信長は毛利討伐に乗り出し、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)を総大将にして播磨に進撃させました。

羽柴秀吉は同年10月に姫路城に入城、山中鹿之助率いる尼子再興軍は秀吉軍に従軍しました。

秀吉は播磨の大半を短期間で平定し、続いて但馬も占領しました。

そして同年12月に運命の上月城を占領するのです。

上月城はそんなに規模の大きい城ではありませんが、備前・美作・播磨の境目の戦略上の用地に築城された重要な拠点だったのです。

この城に決死の覚悟を決めている山中鹿之助率いる尼子再興軍を置きました。

秀吉らしい巧妙な人事ですね!

ここで上月城に入城した尼子再興軍はどれ位の兵がいたのでしょうか?

諸説ありますが、上月城はそんなに大きな城ではなく、規模からして数百が妥当と思われます。

重要拠点を任され戦局が有利に進めば相応の恩賞が見込めた尼子勝久と山中鹿之助等の主従は、尼子再興の機会と思ったことでしょう。

しかし播磨の別所長治が毛利方に寝返ってしまい、秀吉軍の主力は長治が籠る三木城攻めに力を注がざるを得なくなりました。

これは上月城が孤立している状況を意味しています。

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上月城

この状況を見逃す毛利ではありません。

天正6年(1578)4月18日、毛利輝元を総大将にして吉川元春と小早川隆景も合流し、3万の大軍で上月城を包囲しました。

百戦錬磨の名将吉川元春と小早川隆景に隙はありません。

上月城は厳重に包囲され、外部との接触は絶たれました。

この事は早速信長に報告され、嫡男信忠を総大将にして援軍に向かわせました。

秀吉は援軍が到着すると三木城攻撃を任せ、自身は上月城救援に向かい、上月城東側にある高倉山に布陣しました。

しかし毛利兵は3万、秀吉の兵は1万で手が出せるわけがありません。

そのため秀吉は戦ではどうにもならないため、竹中半兵衛と黒田官兵衛に毛利勢の後方備前、備中で調略を試みたといわれますが、何の成果もありませんでした。

6月16日、秀吉は上洛して、織田信長にどうにもならない状況を報告し、指示を求めました。

信長は上月城を見捨てて三木城攻めに集中するように言い渡しました。

一見冷たい指示だと思いますが、三木城攻めで余裕がない状況で、とても上月城を助ける余裕も兵力も無いのです。

信長らしい合理的な考え方という表現がもっとも妥当と思われます。

結局秀吉は6月24日に三木城に向かって撤退しました。

恐らく断腸の思いだったでしょう。

何とか山中鹿之助率いる尼子再興軍を助けたいと思い、上月城まで援軍に来たのですから!

結局7月3日に上月城は落城しました。

毛利方の開城の条件は、尼子勝久、氏久が切腹をしたら、城兵は助けるというものでした。

尼子勝久は切腹前鹿之助を前に、こう述べたとされます。

出家していた自分が、おのおのの心入れによって尼子を名乗り、大将を号することができたのは生前の本懐というもの、今どのようになろうとも、それは智謀の不足ではなく家運が尽きたからだ

こういって鹿之助達に感謝し切腹したと言います。

戦国の武士の心構えが感じられますね。

恐らく尼子勝久は、やり切ったという思いがあったのでしょう。

一方山中鹿之助は殉死するべきだが、吉川元春と刺し違えてから主君勝久の後を追うと考えていたといいます。

一矢報いたいという気持ちがあったのでしょう。

山中鹿之助の最後

天正6年(1578)7月10日、鹿之助は上月城を出て毛利の虜囚になり、備中の毛利輝元の元へ護送されました。

その際、家臣進藤勘助に以下のような書状が残っている。

(進藤勘助が奮戦したことを感謝し)

少しも忘却しない。しかし主従の縁を切るから、どこへでも奉公するように

泣けてきますね。

鹿之助は強いだけではなく、情に熱い男だたのですね。

そういう所が現代でも人気のある原因でしょう!

7月17日、高梁川(甲部川)と成羽川の間にある合井の渡しで殺害されてしまいました。

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阿井の渡し

毛利方の鹿之助に対する警戒は厳重を極め、吉川元春には到底近づけないし、脱走も不可能な状況だった。

山中鹿之助の最後の様子は下記をご覧ください。

山中鹿之助の最後の状況

7月17日、山中鹿之助は阿井の渡しで休息を取り、川端の石に腰を掛けて行く末を思いながら、じっと水面をながめていた。

そうしたら突然毛利家家臣の河村新左衛門という剛力の士が斬りかかってきた。鹿之助はかわして川へ飛び込んだ。二人は水中で戦い、鹿之助は重でを負いながらも新左衛門を組み伏せた。

そこに大力の福間彦右衛門が背後から斬りかかりとどめを刺した。

陰徳太平記意訳

こうして我らがヒーロー山中鹿之助は最後を迎えたのである。

七難八苦の人生は僅か34年で終わりを告げた。

山中鹿之助の尼子再興のための戦いをまとめてみた

いかがでしたでしょうか?

山中鹿之助(鹿介)の熱い生き様を描きました。

尼子氏への忠誠は見事なものですが、不撓不屈の精神も凄まじいものがありますね。

もし阿井の渡しで斬られず生き延びたら、山中鹿之助は確実に4度目の尼子再興の旗を挙げるでしょう。

何があっても何度でも立ち上がる。

このどんな障害も跳ね返す、強靭な意思こそ鹿之助の最大の魅力であり、現代においても共感する人が多い所以だと思います。

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。