戦国時代

毛利元就は初陣をどう戦ったのか?わかりやすく解説しました

 

毛利元就は中国地方の覇者として有名ですよね!

しかし毛利元就の初陣(有田中井手の戦い)の詳細を知っている方は意外と少ないのではないかと思います。

ちなみに「西の桶狭間」と評される奇襲作戦でした。

毛利家は元々安芸国のちっぽけな国人という取るに足らない小勢力でした。

そんな毛利家に安芸国の有力な豪族の武田元繁が攻め込んでくるのです。

言うまでもなく毛利家とは話にならない程の大勢力です。

兵力差は軽く倍はあります。

毛利元就の初陣はこの大敵との戦いでした。

ではこの戦いがどう展開していったのかわかりやすく解説しますね!

それでは一緒に楽しみましょう!!

なお、解説は兵法の大家諸葛孔明さんに頼みました。

 

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皆様、よろしくお願いいたします。

毛利元就は初陣(有田中井手の戦い)をどう戦ったのか?

初陣(有田中井手の戦い)直前の状況

毛利氏は長年周防と長門を中心として勢力圏を築いている西国の大大名大内氏に属していました。

この時期当主大内義興は安芸国の有力国人衆と共に将軍足利義稙を奉じて上洛していていました。

そして10年も在京していたので、留守中を狙った尼子経久の謀略により、豪族同士の紛争が続出していたのです。

安芸国は大内氏と山陰に大勢力を築いている尼子氏の二大勢力に挟まれた地域にあり、小豪族はその時々強い方に付かなくては生き延びることができません。

ですので大内方の豪族が簡単に尼子氏に鞍替えするのも、仕方のないことだったのです。

いずれにせよ大内義興は旧守護であった佐東銀山城城主の武田家当主元繁に帰国して安芸国を鎮撫するように命じました。

その際大内義興は養女(飛鳥井雅俊女)を元繁に娶らせています。

ところが武田元繁はこの時既に山陰の大大名尼子氏から調略されていたのです!!

武田家は武田信玄で有名な甲斐源氏の嫡流、家格で言えば大内家より上なので、大内家傘下でいることは面白くなかったのでしょうね!

武田元繁

大内義興と安芸の有力国人衆が上洛している今こそ勢力を伸ばす好機ぞ。兵を挙げい~

こうして武田元繁は兵を挙げたのです。

なんと尼子久幸の娘を妻とし、尼子との関係を盤石にして、大内氏に対して挙兵し、大内義興の養女とは離縁しました!

諸葛孔明 

武田家は安芸国では名門で今は尼子の後ろ盾を得ている。おまけに大内殿は留守中。元繁殿が挙兵したら大変な事になりますな~

こうして武田元繁は挙兵し、山県郡の今田に陣を張り、国人衆に参集を呼び掛けました。

さすがに武田家は落ちぶれたとはいえ元守護の家柄。

たちまち5千騎の兵が集まりました。

武田元繁に味方しなかった勢力はごく僅か!

参考に下記に記しますね!

・毛利氏

・小田刑部少輔信忠(有田城主)

・吉川氏

動員兵力は三氏合わせても1500騎前後とされる。

永正14年10月3日、武田元繁は攻撃開始、有田城を包囲しました。

刻々と毛利元就の初陣の時が迫ってきましたね!

初陣(有田中井手の戦い)の前哨戦

毛利元就の初陣に至った経緯を説明します。

毛利家当主興元が永正13年(1516年)8月に死去してしまいました。

嫡男は幸松丸は僅か2歳。

元就は幸松丸を支える後見人となり、事実上全権を担う立場となります。

毛利家家中は未だ初陣も済ませていない毛利元就に不安を抱き、毛利家家中は少なからず動揺していました。

この機を逃す武田元繁ではありません。

永正14年10月21日、武田元繁は毛利元就の居城猿掛城に近い多治比表に兵600騎を進出させ、民家に放火しました。

これは多治比と吉田に居城を持つ毛利氏に対する挑発行為に他なりません。

毛利元就

おのれ~出陣じゃ~

元就は150騎を率いて応戦、見事に武田軍を蹴散らしました。

時に毛利元就は21歳!

この時代の武将達が10代前半に初陣を果たすのですが、毛利元就の初陣は随分遅いですね。

しかし見事な勝利を収めました。

この初戦での勝利により、反武田の勢力を活気づけました。

元就は反武田の勢力を糾合して700騎の兵力を集め、それに加えて吉川氏の300騎も加わりました。

気勢を上げる毛利軍!

10月22日、その勢いをもって有田に出陣しました。

いよいよ毛利元就の本格的な初陣が開始されます。

初陣(有田中井手の戦い)での戦振り

毛利元就の初陣(有田中井手の戦い)の戦略図です。

戦場が接近しているので、記事の縮尺を大きくしてお楽しみください!

赤:有田城 黄:武田元繁戦死の地(又打川) 

青:郡山城

武田元繁は毛利軍が有田に来ることを予期しており、有田の中井手に防塁を作らせて、勇将と誉の高い熊谷元直に500騎の兵を与えて守らせました。

毛利軍は遠矢を熊谷隊に射かけました。

毛利元就

武田は大軍。このままでは武田に別動隊を編成されて、わが軍の背後に回られるかもしれない。よし。熊谷隊に突撃じゃ~

毛利軍300余騎が熊谷隊に突撃。

熊谷隊は混乱しました。

熊谷元直は自軍の不甲斐なさを見てかっとなり、槍を取って馬に乗り毛利軍に突撃しました。

しかし毛利軍の弓隊の攻撃を受け、その矢の一本が熊谷信直の額を射抜き、馬から転げ落ちたところを、吉川勢の宮庄経友が駆け寄り首級をあげました。

武田元繁

なに!熊谷信直が毛利に討取られただと!!おのれ毛利め!全軍突撃~毛利元就を討取れ~

武田元繁は5000騎の兵のうち、有田城に700騎を残して毛利陣に進撃しました。

その頃毛利軍は中井出の敵塁を突破して又打川の近くまで進撃していました。

そこで武田軍の激しい攻撃を受けたのです。

多勢に無勢、毛利軍は次第に押されてしまいます。

毛利元就は全身の力を込めて味方を𠮟咤激励します。

この毛利元就の𠮟咤激励は初陣とは思えないほど見事なものであり、将兵の心を掴んで再び敵陣へ突撃しました。

この有田中井手の戦いは膠着状態になります。

そこに武田元繁が突撃してくるのです。

武田元繁

毛利元就の若造め!初陣のくせに生意気な!こうなったら儂自ら討取ってくれるわ

武田元繁は小勢の毛利軍に押されていることにとても苛立ち、槍を持って突撃したのです。

元繁が又内川を飛び越えようとするのが元就の目に留まりました。

毛利元就

あの武者は武田元繁に違いない。弓隊射落とせ~

元就が弓隊に一斉射撃を命じました。

放った矢の一本が武田元繁の胸板を射抜き、又内川に頭から落ちたのです。

見事敵将武田元繁を討取りました。

この有田中井手の戦いは、毛利元就にとって初陣なのに見事な戦闘指揮ですね。

ちなみにこの戦いは、織田信長が今川義元を討取った桶狭間の戦いに似ていることから、「西国の桶狭間」と評されています。

毛利元就の初陣(有田中井手の戦い)をわかりやすく解説してみた

いかがでしたでしょうか。

今回は毛利元就の初陣である有田中井手の戦いを解説しました。

毛利元就は初陣であるにも関わらず、見事な采配を見せ、武田元繁の大軍を打ち破りました。

並みの武将じゃありませんね!

しかし才能だけじゃなく、精神面の強さもあったと思います。

毛利元就がどのように西国の大大名になっていくのか、追っていきたいと思います。

最後までご覧くださり、ありがとうございました。