戦国時代

毛利元就の月山富田城を落とした見事な城攻めをわかりやすく解説しました

毛利元就が月山富田城を攻め落としたことはご存じの方は多いと思います。

しかし城攻めの詳細については、そんなに知られていないのではないでしょうか?

月山富田城は天然の要害に築城された難攻不落の名城で、尼子一族の居城だったことはあります。

この月山富田城に尼子一族は12400もの将兵で立て籠もりました。

これだけの将兵がこの城に籠城すれば、まず落ちないでしょう。

そこを毛利元就はどうやって攻略したのかを、わかりやすく解説します。

最後までお付き合いいただければ光栄です。

なお、解説は兵法の大家、諸葛孔明さんにお願いしました。

諸葛孔明

皆さん、よろしくお願いいたします。

毛利元就の月山富田城を落とした見事な城攻めをわかりやすく解説

毛利元就の月山富田城攻めの決意

毛利元就が尼子氏の本拠地・出雲への侵攻を開始したのは永禄5年(1562)7月3日で、15000の兵を率いて出雲に侵攻。

出雲には毛利元就が狙う月山富田城の外堀ともいえる出雲十旗という支城網がありましたが、毛利軍の攻撃により相次いで陥落、最後に残った白鹿城は頑強な抵抗をみせましたが、永禄6年(1563)10月29日に70日余に渡る攻防戦により陥落しました。

残るは月山富田城のみです。

毛利元就は大敵陶晴賢を厳島の戦いで討取って防長を制圧、更に永禄6年(1563)3月に、豊後の大友宗麟と講和を成立させました。

この講和により、後顧の憂いは無くなりました。

更に尼子晴久は既に亡く、現当主の尼子義久は凡庸で、出雲十旗も無くなった今、毛利元就は月山富田城を攻め落とすお膳立てができたと思った事でしょう。

諸葛孔明

月山富田城は行ってみれば裸城ですね!手強い尼子晴久殿はもういないし、ここぞ好機と元就殿は思った事でしょう

永禄8年(1565)、毛利元就は月山富田城の総攻撃を決意しました。

しかし月山富田城は攻めにくく守りやすい天然の要害でした。

では月山富田城跡を画像で見てみましょう!

画像

画像

諸葛孔明

上の画像を見れば分かる通り、月山富田城は険しい山に築城された堅城ですね!

毛利元就の兵糧攻め

毛利元就は月山富田城を包囲し兵糧攻めにしました。

戦においては戦いを長期巻続けることは下の下策とされますが、毛利元就は月山富田城をあまりに堅固な城塞であるため、むやみに攻撃すれば損害が激しくなると考え、兵糧攻めを選択しました。

毛利軍は城を包囲して糧道を断ち、更に春には麦を刈り捨て、秋には稲を薙ぎ払うという徹底ぶりでした。

そして毛利元就による月山富田城の包囲は、下記のように次第に堅固になっていきました。

これでは海と陸にも毛利兵が見張っているため、食料の補給はできないですね!

毛利元就は月山富田城の兵糧攻めが余程余裕だったらしく、陣中で蹴鞠をしたり、和歌や連歌の会も催していました。

吉川元春は太平記を40巻も書写しているのです!!!

尼子氏の力が弱まっているのが窺えますね!

三方向からの総攻撃

永禄8年(1565)の春ごろ、毛利元就の包囲作戦により月山富田城は完全に孤立無援の状態に陥り、兵糧攻めによる城兵の飢餓状態も見え始めました。

永禄8年4月、尼子の将兵の士気が下がっていると判断したのでしょう。

毛利元就は月山富田城へ総攻撃を決意しました。

星上山に本陣を置き、降兵を含めた3万5千の大軍で三方面から攻撃したのです。

尼子の将兵は12400余です。

4月17日、毛利元就による月山富田城への総攻撃が開始されました。

三方面からの同時攻撃です。

毛利軍は激しく攻めましたが、城内へ通じる三つの道はいずれも隘路で、多くの兵を進ませることはできません。

また、尼子勢も必死で戦い、毛利勢の攻勢に一歩も退かない。

特に塩矢口を守っていた山中鹿助は鬼神の如く奮闘、寄せ手を次々と蹴散らし、毛利軍の高野監物を討取って、一時この方面の毛利軍全体を危機に陥れるほどの奮闘ぶりでありました。

戦いは連日行われたが、尼子勢の必死の防戦により毛利勢は撃退されました。

毛利元就は月山富田城は一気に攻略するのは無理と判断し、4月28日に洗熊城に引き上げました。

諸葛孔明

尼子勢は兵糧攻めで苦しんでいるとはいえ、まだまだ逃亡兵もいなくて士気も高い。元就殿は珍しく見間違えましたな。しかし決断は流石に早い。力攻めが無理と分かればすかさず兵を引く。元就殿ならではの用兵ですね!

厳しい兵糧攻め

9月20日、毛利元就は再び月山富田城を包囲しました。

前回の力攻めの失敗もあって、今度は周囲の京羅木山、石原山、滝山に向城を築き、包囲網一段と厳しくしました。

毛利元就の月山富田城攻めの兵糧攻めという方針は徹底化され、大掛かりな戦は一切しませんでした。

この時有名な山中鹿助と品川大膳の一騎打ちが行われます。

勝負は山中鹿助が勝ち、尼子勢の士気は一時的に盛り上がりましたが、この時既に飢餓状態に陥っていました。

諸葛孔明

尼子勢は毛利元就の包囲により、食料補給と援軍のあてがない状況でした。月山富田城に籠ってから3年も経っています。これだけ長期間の籠城で絶望的状況に陥っているのですから、兵の士気は下がる一方でしょう

そしてとうとう月山富田城から抜け出し、投降を申し出る兵卒が続々と出てきました。

しかし毛利元就は許さず、全員斬殺したのです。

諸葛孔明

毛利元就殿が月山富田城の投降兵を斬らせたのは、兵卒を城から出さないことにより、城内の人員を減らさないようにして、食料を早く尽きさせる計略です。元就殿らしい考え抜かれた計略ですね

月山富田城、遂に陥落

永禄8年(1565)の初冬、月山富田城の食糧はとうとう底をつき、城兵は飢餓に苦しみました。

城兵は飢え死にするよりはと危険をおかしてが月山富田城から脱出を図るようになりました。

すると今度は投降兵を許します。

そして「降参した者は命を保証し、領地も与える」という内容の高札を城門近くに立てさせました。

毛利元就

儂自ら兵法を教えて進ぜよう。投降兵を許したのは、もっと多くの兵を投降させるためだ。既に月山富田城に食糧は無くなったからのう。今度は城兵を可能な限り少なくする。もうちょっとすれば、尼子はがたがたになるわい!

投降兵は日増しに増え、驚くべきことに城兵の中に亀井秀綱、河本隆任、河副久盛等の尼子氏重臣も混じっていました。

その後も投降兵は続々と増え、100人単位の集団投降も行われるようになりました。

この状況から毛利元就は尼子にもはや戦意は残っていないと判断し、米原綱寛を使者にして和議を持ち込みました。

毛利元就の判断は正しく、月山富田城には諸士300、雑兵を合わせても2000しかいなたったといわれています。

兵糧攻めの厳しさがうかがえますね!

尼子勢は毛利の35000という大軍に対し、戦っても勝目が無いため、開城降伏に応じるよりほかはありませんでした。

11月21日、尼子家当主義久は誓書を交換し、28日に月山富田城を出て虜囚の身に落ちぶれました。

なお、尼子義久、倫久、秀久の三兄弟は命を助けられました。

なおこの日まで城兵は相次いで投降し、城内の兵は140名しかいなかったといわれています。

兵卒の身になれば、飢え死にするよりは、命を助けると言ってくれている毛利に投降しますよね。

毛利元就の知謀が冴えわたった月山富田城の城攻めでした。

毛利元就の月山富田城攻めをまとめてみた

いかがでしたでしょうか。

今回は毛利元就の月山富田城攻めについてご紹介いたしました。

月山富田城は難攻不落の名城で、毛利元就の大軍による攻撃を跳ね返しました。

その結果、包囲されて兵糧攻めをされることとなります。

この兵糧攻めはとても厳しいものであり、城内は飢えに苦しむ城兵でいっぱいだったことでしょう。

最後は将兵が毛利に投降してきますが、そこまで持っていった毛利元就の鬼謀は凄いですね!

流石に中国地方を統一した名将です。

素晴らしいですね。

また毛利元就を追いかけていこうと思います。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。