戦国時代

毛利元就は郡山合戦でいかにして約3倍の尼子の大軍に勝利したか!

毛利元就が郡山合戦で尼子勢と戦い大勝利を収めたことをご存じでしょうか?

お知りになっている方は相応にいるでしょうが、詳細なことまで把握されている方はそういないのではないかと思います。

この郡山合戦での毛利元就の指揮はとても素晴らしいものです。

たった2400(領民を入城させて8000)の兵で、30000の尼子軍を打ち破るのですから!

ではどのように合戦が進んだか、分かりやすく解説していきたいと思います。

なお、このコンテンツでは兵法の大家、諸葛孔明さんに解説をお願いしました。

諸葛孔明

皆様、よろしくお願いいたします。

尼子から大内氏に鞍替え

この当時の安芸国は、防長の大内氏、出雲の尼子氏という大勢力の狭間にあり、豪族達は生き残るために両勢力の動向を常に注視していました。

毛利元就は尼子氏と郡山合戦という大規模な合戦を戦いますが、この時は尼子氏に従属している一豪族に過ぎない存在でした。

ここでなぜ郡山合戦が起きる大きな理由となる、毛利元就が尼子氏から大内氏へ鞍替えしたのか見てみましょう。

1.元就が家督相続をする際、尼子重臣亀井秀綱が毛利家家臣坂・渡辺一派と気脈を通じて、異母弟の相合元網を擁立し元就を廃そうとした。

2.佐東銀山城の戦いでの功績に比して恩賞が少なかった。この時尼子からの恩賞は50貫文の領地で、現在の価値に直すと、年収約750万円。

諸葛孔明

これでは元就殿が怒るのも無理はないですね!何せ今でいう内政干渉をされ、加えて命がけの合戦での働きに僅かな恩賞。尼子氏への信頼感も無くなったことでしょう!

毛利元就は大内氏に帰属したのは、大永5年(1535年)3月と言われています。

この時長男の毛利隆元を人質に差し出しました。

隆元は温厚で知性のある人物であったため大内家中で好かれ、人脈を築いていったとされています。

尼子晴久、毛利討伐を決意

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尼子晴久肖像画

安芸国と備後国の国境周辺は尼子方の豪族が多数いました。

大内氏と良好な関係を築いた毛利元就は、この尼子方の豪族を攻撃し、毛利の影響力を浸透させていきました。

尼子詮久

大内へ寝返っただけでなく、我が勢力を攻撃するとは!!許せん。討伐じゃ~

天文8年(1539)尼子詮久は居城の月山富田城に重臣を集めて協議しました。

まだ26代の血気盛んな尼子詮久は毛利攻めを主張。

祖父の経久や経久の弟の久幸は「毛利は強敵だから、強引に攻めるべきではない」と意見しましたが退けられました。

こうして翌9年の秋に毛利討伐へ出陣することが決定したのです。

諸葛孔明

尼子詮久殿は毛利元就殿が自分のもとを去って大内氏に根鞍替えしたのにも腹が立ちました。そして徐々に大きくなり、尼子勢力を侵蝕する毛利に脅威を持っていたのでしょう。まだ小豪族の域を出ていない毛利氏に3万もの大軍でせめこむのですから!

郡山合戦の序章

尼子軍侵攻図

大永9年(1540)尼子詮久は出雲、伯耆、因幡、備前、美作、備中、備後、石見、安芸の兵約3万を率いて月山富田城を出発しました。

9月4日、尼子詮久は遂に毛利領に侵攻、郡山城から僅か4キロしか離れていない風越山に本陣を置いたのです。

これに対して、毛利元就には2400の兵しかいません。

兵数が余りにも少ないため、農民商人を妻子を伴って郡山城に入城させ軍民一体の籠城体制をとりました。

郡山城の兵数ですが、正規兵2400に入城した農民商人を併せて兵8千と書いてあるものを見かけます。正確には女子供も入れて8千のようです。

この時毛利元就は郡山合戦を前にして以下のように言ったとされています。

およそ、戦は軍勢の多少によらず、士卒一和し進退一如なるときは千術自由ならずという事なし、敵多勢といえども恐るるにたらず

陰徳太平記より

毛利元就は郡山城の防備を固め、大内義隆に援軍要請の使者を送りました。

諸葛孔明

毛利は小勢!大内義隆殿の援軍が来なければ確実に負けるでしょう。援軍が来るまでいかにして元就殿が持ちこたえたか!毛利元就殿が郡山合戦で執った名采配をご説明いたしましょう

青山土取場の合戦

9月5日に郡山合戦が尼子軍が吉田上村に進出して民家に火を放った。

毛利元就は動かなかったが、郡山合戦の事実上のスタートとなります。

諸葛孔明

9月5日以降数度の合戦がありましたが、いずれも毛利の勝利に終わります。しかし10月11日、尼子軍が約1万の兵で攻め込んできました。毛利元就殿がどう指揮をとるのか、郡山合戦の見所ですね!

10月11日、新宮党の尼子誠久が約一万の兵を率いて郡山城に攻めてきました。

元就は城に籠らず出撃します。

兵は僅か2000!

家臣

殿!我らは僅か2千!尼子は1万!無謀ですぞ!

毛利元就

城に籠っていては士気が下がる。フフフ、我に策アリ

毛利元就は郡山城の周囲にある竹林、藪陰に伏兵を配置したのです!!

自らは尼子軍正面へと進み、油縄手で尼子軍に対抗しようとしました。

先鋒赤川元助の兵400は、油縄手から多治比川を渡って進み、元就は赤川隊に続きました。

尼子軍は毛利軍の動きを見て攻撃開始しました。

この時元就は自分の姿を尼子軍に見えるようにしていたと言います。

恐らくは敵を引き付けて、伏兵による攻撃を成功させるためでしょう。

毛利対尼子の激戦が始まりました。

激闘数刻。

元就の旗幟が翻ります。

これを見た毛利の伏兵が左右両方から尼子軍に突撃しました。

尼子軍は3方面からの攻撃に耐えきれず敗走!

毛利元就

追撃じゃ~この勢いで尼子詮久を討取るのじゃ~

毛利軍の追撃は凄まじく、逃げる尼子勢を追撃し、遂に尼子本陣の青山の麓まで攻め込みました。

外柵を破って突入、激しい戦いを制し、尼子軍の三沢為幸、福原、中西某以下数十人を討取りました。

諸葛孔明

兵力差をひっくり返した見事な大勝利ですね!この戦いは青山土取場の合戦と呼ばれています。

大内軍の到着と尼子軍総退却

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左が尼子勢本陣が置かれた青山、右が三井山

11月26日、待ちに待った大内氏の援軍1万が到着しました。

大将は陶隆房(後に厳島で戦う陶晴賢)。

毛利勢は援軍到着に大いに喜び士気が高まりました。

一方尼子勢は連戦連敗、おまけに大軍のため食料補給が追い付かず、その上寒冷の時期を迎えたため、士気はかなり低い状況でした。

翌天文10年(1541)正月13日、尼子勢の士気が低いのを見て取った毛利元就は、郡山合戦の決着をつけるべく、3000の兵で尼子勢の宮崎長尾の陣に総攻撃しました。

この戦いに12歳の吉川元春が初陣をはたしています。

尼子勢の先鋒は高尾豊前守兵2000、次鋒は黒正甚兵衛で兵1500ですが、毛利勢は次々と破り更に進撃しました。

しかし三陣は猛将吉川興経が兵1000で守っており、毛利勢と激戦を交えました。

毛利勢は吉川勢を破れなかったが、尼子の将三沢蔵人、高尾豊前守等200余人を討取り、敵陣に放火して凱旋しました。

元就が尼子勢と激戦中、援軍の大内勢は尼子本営目指して攻撃を開始。

激しい戦いを繰り広げましたが日没となり、互いに退却しました。

この戦いで尼子経久の弟の尼子久幸が戦死しています。

この時の尼子軍の状況は、

・尼子軍が攻め寄せてから、5か月も経っていた

・その間に行われた戦闘のほとんどに敗北した

・将兵を多数討取られて士気が下がり、戦闘は困難な状況になった

・雪が降っていて、山間部での野営が困難な状況になった

・補給が困難になっていた

尼子詮久は退却を決意、北の生田方面に退却するのです。

毛利勢は追撃しますが、積雪に阻まれてしまいました。

毛利元就は郡山合戦で大勝利を収めました。

諸葛孔明

毛利元就殿が郡山合戦で勝利したのは、元就殿の少数の兵で倍以上の尼子勢を打ち破るという類まれな軍事的才能があったからです。素晴らしい武将ですね!これで今後の尼子氏との戦に勢いづくでしょう!

毛利元就が尼子の大軍を破った郡山合戦をまとめてみた

いかがでしたでしょうか。

今回は毛利元就と尼子が戦った郡山合戦をまとめてみました。

毛利元就は郡山合戦で常に少数の兵で戦うことを強いられ、苦戦はしますがことごとく尼子勢を打ち破っています。

そして遂に援軍の大内勢が来着し、共同して尼子勢を攻撃して蹴散らし、大勝利を収めます。

この戦いは尼子勢の衰退を招くと共に、毛利家の大躍進の元となるのです。

今後も毛利元就の事績を追いかけたいと思います。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。