毛利元就が厳島の戦いで大勝利を収めたことをご存じの方は大勢いらっしゃると思います。
三大奇襲戦と呼ばれる世紀の奇襲作戦ですね!
相手の陶晴賢は天文20年(1551)8月21日に主君大内義隆を弑逆した謀反人ですが、将兵にはとても慕われる武人肌の名将でした。
毛利元就が厳島の戦いを行った時は、陶晴賢の勢力は防長豊筑の四ヶ国にも及んでおり、2万の兵を動員して毛利に攻め込んできます。
対して毛利は僅か4000!
これでは奇襲しか勝ち目はないですよね!
ではどうやって毛利元就は厳島の戦いに勝利したのか、分かりやすく解説致します。
今回も高名な兵法家諸葛孔明さんに解説を頼みました。
皆様、よろしくお願いいたします
毛利元就の厳島の戦いを勝利に導いた戦略とは
毛利元就の厳島の戦いに勝つための作戦とは!
毛利元就は厳島の戦いの時、安芸一国も領有していませんでした。
敵の四ヶ国も領有していた陶晴賢は国力、動員兵力等全てにおいて、比較にならない程の大きな存在だったわけです!
これほど戦力差があれば、普通に戦っても勝てません。
そこで奇襲となるわけです!!
しかし毛利元就は厳島の戦いに勝つためには陶晴賢を討取らなければなりません。
そうしないと陶晴賢は国力が大幅に優っているため、再び攻めてこられるかもしれません。
二度三度と戦えば消耗戦となって負けてしまうでしょう!
以上の事から陶晴賢を一発で討取る必要があったわけですが、その仕留める場所として選ばれたのが厳島だったわけです。
厳島の地図
四方が海で島のほとんどが山地!
平地は厳島神社周辺の狭隘な部分のみ。
陶軍をこの狭い地域に誘い込み奇襲をすれば、間違いなく勝てるでしょう!
一番の問題は陶晴賢をどうやって厳島におびき寄せるかです。このような小さい島に大大名の陶晴賢が自ら攻め込んでくるなんてありえないでしょう。
それでは毛利元就がどうやって陶晴賢を厳島におびきよせたかを次項からご説明いたします!
冴えわたる毛利元就の謀略
陶晴賢の右腕とも言える存在の武将に江良房栄という武将がいました。
江良房栄は毛利元就と安芸や備後で攻城野戦を共にした仲です。
お互い手の内をよく知りあっていました。
江良房栄を敵に回したら、儂の嘘、いや謀略がばれてしまう。味方につけよう!
しかし江良房栄は、毛利元就の誘いに曖昧な態度でしか応じません。
不安になった元就は陶方の間者に「江良房栄が毛利に内通している」との嘘を流したのです!!!
陶晴賢は見事に引っかかり、江良房栄を殺害しました。
次に毛利家の宿老の桂元澄に陶晴賢に内通するという芝居をさせます。
桂元澄は30年前の毛利家の内紛で毛利元就と対立し、父を自刃させられた経緯があります。
その事を利用したのです!!
桂元澄殿にこの機会に恨みを晴らしたいと陶晴賢殿に訴えさせたのです。真実を元にしているので説得力がありますね!
更にこう言わせます。
陶殿!今が好機でござる。厳島の宮尾城を攻めれば元就は必ず救援に来ます。元就が厳島に行っている間に吉田郡山城をこの元澄が奪って見せましょう!!
宮尾城は陶晴賢を厳島に引っ張り出すためためだけに築城された、いってみれば囮城というべき城です。
毛利元就は厳島の戦いに勝つために、あらゆる手段を使ったのです。
ちなみに宮尾城は厳島の北西部分にありましたが(場所は後項毛利軍の作戦図面参照)、手前は狭い平野となっています。
毛利元就は厳島の戦いで宮尾城を囮にして手前の狭い平野部分に陶の大軍をおびき出し、周囲の山や海から攻撃して殲滅しようとする作戦を立案しました。
宮尾城跡の画像です。
陶晴賢は謀略に次ぐ謀略に引っかかり、弘治元年9月21日に二万の大軍で厳島に上陸したのです。
とうとう陶晴賢という大魚を釣りましたね!
厳島の戦いの序章!上陸作戦開始
厳島に上陸した陶晴賢は、宮尾城に激しい攻撃を加えました。
宮尾城はあっという間に落城寸前になります。
宮尾城が落城すれば、陶晴賢殿はさっさと本拠地へ帰ってしまうでしょう。その後陸路から大軍で攻めてくるのは目に見えています。そうしたら兵力の差から元就殿が陶軍に勝つのは至難の業となってくるでしょう!なんとしても宮尾城を救う必要があります。
一方毛利元就は4000の兵を集め上陸準備にかかりますが、水軍が足りていませんでした。
毛利元就の厳島の戦いでの勝利条件は陶晴賢を討取ることですが、それには海上封鎖し逃げ道を塞がなければなりません。
しかし現時点では陶軍500艘に対して200艘しかなかったのです!
そこで毛利元就は瀬戸内海の沖家水軍を味方につけようと交渉しましたが、中々応じようとしません。
こうしている間にも宮尾城はどんどん落城へと近づいています。
9月27日、毛利元就はこれ以上沖家水軍を待っていたら宮尾城が陥落してしまい、厳島の戦いに負けると考え、来援を諦めて出陣することにしました。
しかし厳島上陸直前の9月28日に沖家水軍300艘の大船団が来援したのです。
これで毛利方の軍船も500艘になり、陶方の軍船と互角になりました。
うむ、準備は整った!上陸作戦開始じゃ~
9月30日午後六時頃、まさに渡海しようとしていたら突然の暴風雨が起き、船頭はおろか将兵までも恐れ、厳島への渡海を延期しようと言いだしました。
しかしここで上陸作戦を決行しなければ宮尾城は落城し、毛利元就が立案した厳島の戦いの作戦は崩壊してしまいます!!!
暴風雨は天が我らを見守っている証ぞ~それに厳島の陶軍は油断しきっている。これで我が軍の勝ちは決まった!進め~
こういって将兵を励まし厳島への上陸作戦を強行しました。
まさに名将の決断ですね!
陶軍を殲滅せよ!
いよいよ陶軍に攻撃開始です。
では攻撃計画を細かくご説明いたします。

1.本隊は包ヶ浦に上陸後、博奕尾(ばくちお)の峰を超えて塔の丘の背後から陶軍本陣の右側面を攻撃する
総帥:毛利元就、隆元
先鋒:吉川元春
2.二番隊は厳島の正面に上陸し、宮尾城の将兵と協力して陶晴賢の本陣を衝く
総帥:小早川隆景
3.三番隊は水軍で、厳島対岸の海面で待機し、陸上部隊の攻撃と同時に陶軍水軍を攻撃すると共に退路を塞ぐ
総帥:村上武吉
陶軍本陣を二方向から奇襲し、海からも攻めたて逃げ道を塞ぐ!
完璧な作戦ですね!
9月30日午後10時頃、毛利元就は包ヶ浦海岸に上陸し、作戦通り博奕尾を進軍して陶軍本陣近くまで進みました。
二番隊は小早川隆景の部下の乃美氏の提案により、陶晴賢に加勢に来た筑前国の水軍だと嘘をつき、まんまとひっかけて敵水軍の真っただ中に侵入したのです。
そして大胆にも上陸し、将兵を塔の岡の坂下に待機させました。
毛利元就の厳島の戦いで立案した作戦が、全てうまくいっていますね!
後は攻撃開始の時刻を待つだけです。
毛利元就の陶軍本陣への総攻撃
10月1日卯の刻(午前六時)、博奕尾から峰続きでやってきた毛利軍本隊が眼下の陶軍本隊の右側面に襲い掛かりました。
不意を突かれた陶軍は大混乱に陥ります。
そこに待機していた小早川隆景の別動隊が、戦場となっている塔の岡の坂を駆けのぼり、陶軍本隊に激しい攻撃を加えました。
更に毛利方水軍が陶軍の水軍に攻撃を開始したのです。
流石に晴賢殿も3方向から猛攻されたら対処しようがないでしょう。また塔の岡の狭い場所では大軍ではかえって身動きできず、戦の駆け引きはできませんでした。
この三方向からの猛攻に陶軍は大混乱に陥ります
陶晴賢は厳島からの脱出を試みましたが果たせず、大江浦で自刃しました。
35歳の人生でした。
その後13日まで残敵掃討をします。
とうとう陶軍は壊滅し、4780名の将兵が討死にしました。
毛利元就は厳島の戦いで完全勝利を収めたのです。
それは山陰の大勢力尼子氏を滅ぼし、中国地方の覇者となるきっかけにもなりました。
更に周囲への影響力の高い厳島神社に以下の対応を行っています。
- 先鋒吉川元春は、陶軍が放った火が厳島神社に移りそうな状況であったため部下に消化させた
- 毛利元就は合戦で討死にした将兵の死体を残らず対岸の大野に運び、血を吸った地面をことごとく削り落としました
- 厳島神社の神殿も社壇から回廊まで潮水で洗い流し、あくる日から七日間神楽や龍頭納楚理の舞を奉納した
- 戦死した敵味方のために万部経会を催し、冥福を祈った
ここまでのことを行うのは、毛利元就が慈悲深い大将だということをアピールするための一大プロモーションだったかもしれませんね!
ともあれ毛利元就の厳島の戦いは大勝利に終わりました!
見事です!!
この一戦こそが、毛利氏を中国地方の覇者に押し上げた戦いだったといえるでしょう。
毛利元就の厳島の戦いをまとめてみた
いかがでしたでしょうか。
今回は毛利元就の厳島の戦いを執筆いたしました。
毛利軍はたった四千の兵で2万の陶軍を破る大金星を上げるわけですが、簡単に勝てたわけではありません。
勝利するには幾つもの難関があり、元就は薄氷を踏む心境で謀略等により突破していったのです。
毛利元就が厳島の戦いで大勝利を収めた要因は、決して謀略の才だけではなく、勇気とメンタルの強さも大きな割合を占めると言って良いでしょう!
最後までご覧いただきありがとうございました。