戦国時代

山崎の戦いのわかりやすい説明!勝敗を分けたポイントとは!

山崎の戦いは「天王山」という言葉で有名ですね。

また、羽柴秀吉と明智光秀が天下を争った合戦であることも有名だと思います。

ただなぜ秀吉の勝因、光秀の敗因までは知られていないかもしれません。

そこで今回山崎の戦いのわかりやすい説明をしようと思い記事を書きました。

このコンテンツにより、山崎の戦いを知っていただければなと思います。

今回解説を諸葛孔明さんにお願いいたしました。

諸葛孔明

皆様、よろしくお願いいたします

山崎の戦いのわかりやすい説明!勝敗を分けたポイントとは!

毛利との和睦

それでは山崎の戦いでの羽柴秀吉の動きを説明します。

天正10年6月2日、本能寺にて織田信長と嫡男信忠が明智光秀に討たれました。

この時秀吉は中国の覇者毛利一族と交戦中で、高松城を水攻めしている最中でした。

秀吉は6月3日に主君信長が討死したのを知ります。

この時秀吉は「茫然自失の状態に陥っていた」と言われています。

それは自分の実力を認めてくれて、足軽という身分からここまで引き立ててくれた主君信長が討取られたのだから当然と言えるでしょう。

古い書物には黒田官兵衛が、「これは天の加護だ。天下取りの好機である」と秀吉を励ましたと記述されています。

ちなみに「信長殿の死はめでたい」と言ったとの記述もあります(明良洪範)。

どちらが正しいのか分かりませんが、この一連の黒田官兵衛の発言は天下取りへの野望を持っていると秀吉に警戒され、冷遇されたと言われています。

ともあれ秀吉は自分を取り戻し、その日の晩に毛利と和睦、中国大返しの準備に取り掛かるのです!

しかも毛利勢に気づかれないように細心の工夫をして!!

 

諸葛孔明

秀吉殿の判断力、決断の速さは凡人の及ぶところではありませぬ。このような所が天下人へと押し上げていったのでしょう!

中国大返し

秀吉は毛利と和睦し、旗下2万の兵を率いて、な、なんと尼崎まで二日間で147キロも駆け抜けたのです。

この常識を超えた強行軍を見てください。

中国大返しの図


1.(青 高松城)~(紫色 沼城)約22㎞

2.(紫色 沼城)~(緑色 姫路城) 約70㎞

3.(緑色 姫路城)~(灰色 明石)35㎞

4.(灰色 明石)~(紫色 尼崎)約23㎞

5.(紫色 尼崎)~(黄色 富田)約23㎞

6.(黄色 富田)~(黒色 山崎)約6㎞


す、凄まじい!

きっと秀吉の胸には天下を取るという野望の炎が燃え滾っていたのでしょう!

なお、姫路城には流石に秀吉の居城だけあって、米が8万5千石、金800枚、銀750貫文というかなりの物資があったと記録されてあります。

その膨大な物資を秀吉は将兵たちに分配したといいます。

天下取りの為に将兵の士気を上げる目的があったのでしょう!

羽柴秀吉

天下を取るためなら安いもんじゃ。それより光秀を倒すために将兵を集めんと

姫路城出発にあたり秀吉の闘志を表している有名な逸話があります。

6月8日に姫路城に到着し、翌9日早朝に出発と触れさせました。

その時のやりとりです。

要するに天下を取れば姫路城には帰る必要がないと言っているのです。

そして明智光秀との対決に一刻も惜しむ状況でした。

ちょっとでも遅れれば、光秀になびく武将も出てくるかもしれない。

そのため慌ただしく出陣したのです。

山崎に向けて出陣

秀吉は尼崎に着くと旧信長家臣に参陣をを求めました。

織田諸将は大敵毛利を相手に戦っていた秀吉が、本能寺の変が起きてすぐに戻ってきたのを見て、度肝を抜かれたでしょう!

しかし摂津の大名達は明智光秀の与力でしたので、光秀に加担してしまう可能性があります。

ですので秀吉は工作をします。

例えば中川清秀には、「信長、信忠は健在である」と嘘の情報を流す等していました(梅林寺文書)。

信長の家臣達は本能寺で主君信長が倒れた後、何をしていいか分からず、茫然として時間だけが過ぎ去っていったという状況だったようです。

それは信長の3男信孝も同じで、何が何でも明智光秀を討つという気概は全くありませんでした。

しかし秀吉の参陣の求めに応じ、光秀討伐に動き出しました。

集まった武将と兵数は以下の通り。

こうして秀吉自身の兵20000と摂津の大名の兵16500を併せて36500の大軍になりました。

羽柴秀吉

明智の軍は恐らく我が軍の半分以下!負けることはほとんどあるまい!天下取りに突き進むぞ~

秀吉は万全の準備をして光秀軍と遭遇すると予想される山崎に向けて進軍しました。

光秀の誤算に次ぐ誤算

今度は山崎の戦いでの光秀の動きを簡単に説明します。

明智光秀は本能寺で信長父子を討ち、天下取りに一番近い所にいたと言っていいでしょう。

光秀は諸将に参陣を呼びかけますが、誰も来ませんでした。

与力の大名すら来ません。

兵は大よそですが、1万石に3人とすると、兵16500になります。

これに光秀の坂本(近江)13万石と丹波26万石の約40万石あり、兵は13000あったと伝えられています。

与力大名と光秀本隊を合わせれば兵は約3万となり、秀吉軍と戦えたでしょう!

しかし与力大名は誰一人として来ませんでした。

親族の細川藤考、忠興(光秀の娘婿)父子すら来なかったのです。

きっと主君信長を討った謀反人に味方するのが嫌だったという他に、光秀の武将としての能力と戦力に不安を持ったのかもしれません。

というのも、この時点では一番早く上洛して光秀と戦うのは、織田家最強の武将柴田勝家だと思われていました。

このマップを見てください。

青:北ノ庄城 赤:長浜城 黄:高松城 緑:京都

このマップが示すように、秀吉が攻め立てていた高松城より、柴田勝家の居城北ノ庄城の方が京都に近かったのです。

だから光秀は勝家が真っ先に上洛してくると思い、本能寺の変の後すぐに近江を平定し、長浜城の守りを強化したというわけです!

実際柴田勝家と戦ったら光秀は勝てるのかどうかを疑問視する武将も多かったと思います。

諸葛孔明

光秀殿は勝家殿を余程脅威に感じていたらしく、家中随一の勇将斎藤利光に長浜城を守らせ、勝家の軍が畿内に進出できないように対策を立てています

なお、光秀は秀吉に関しては毛利との戦闘が続き、高松城で睨み合いが続くと思っていました。

この読みは決して甘いと評価されるものではありません。

秀吉の大返しを予想できる人はいないでしょう。

それより大返しをされた以上、秀吉の軍が尼崎に到着した時が、唯一の戦機だったといえるでしょう。

尼崎で秀吉の元に織田諸将が集結しきらない内に攻め込めば、兵力差が少ない状態で決戦に臨めます。

明智光秀は全軍を率いて尼崎で決戦をするべきでしたね!!

光秀は行政官としてはとても優れていましたが、武将としての「勝機と見たら全てを賭ける」というような決断力は、秀吉に遠く及ばなかったものと思われます!!

所詮明智光秀は行政官で、戦場では秀吉の敵ではないといえるでしょう。

山崎の戦いの戦略図

緑:尼崎  黄:天王山  赤:京都

山崎の合戦場(天王山)は京の都にかなり近い!

光秀は京の都をおさえることで、自分が天下取りだと主張していたのかもしれませんね。

山崎の合戦

6月12日、山崎の戦いは遂に動き出します。

整理してなるべく見やすく簡単に説明しますね!

6月12日夜、秀吉軍と光秀軍は北方地区で対峙していました。

翌13日午後4時ごろ、秀吉は全軍に前進を命じました。

まず、秀吉方の高山隊に光秀方の斎藤・阿閉隊が猛攻を加えます。

しかし高山隊の左翼から秀吉方の中川・掘隊が包囲攻撃し、更に池田隊が右翼から加わり、明智勢を圧迫します。

山の手では明智方の並川隊が天王山を目指しましたが、秀吉の弟秀長に撃退されました。

天王山

天王山について

山崎の戦いは天王山の取合いが勝敗の分かれ目とされて、同意の時には「天王山」という言葉が使われる時があります。しかし実際はこの天王山の争奪戦は良質な史料では全く確認できないもので、単なる作り話です。

ここで光秀は勝負をかけたのでしょう!

明智軍予備隊の伊勢隊が右から、津田隊が左から羽柴軍中央諸隊に猛攻撃を加えてきました。

羽柴軍も応戦。

しかし明智方の奮闘もここまでででした。

明智勢の疲労を見透かしたように、温存していた秀吉本隊と織田信孝隊が攻撃を開始したのです。

この攻撃により明智勢は劣勢となり、午後7時に総崩れとなり敗走しました。

僅か3時間という短時間の合戦でしたが、両軍の死者は明智勢が3000、羽柴勢3300であったと言われています。

明智勢はとても善戦いたしました。

光秀は兵を集中し、秀吉の諸将の参陣が集結しない状況で尼崎で決戦を行っていたら、別の結果が出ていたかもしれませんね。 

歴史にIFは禁物ですが、ちょっと考えてしまいますね!!

光秀の最後

山崎の戦いで負けた明智軍は、勝龍寺城に逃れた。

しかし指揮系統は乱れており、大部分は近江方面や丹波方面に敗走し、勝龍寺城に入城したのは僅かに1千でした。

13日深夜、光秀は再起を図るために坂本城に帰ろうとして、勝龍寺城を出発します。

そして小栗栖というところで、農民の槍で突かれて他界しました。

あの信長を倒した男が農民の槍で最期を遂げるとは・・・・

もっとも坂本城に戻れても、光秀の運命がひっくり返ることはどう見てもないでしょう。

しかし武士らしい死に方はできたことと思います。

なお、光秀の従妹光春は坂本城にいたが、15日に光秀の死を知って、光秀の妻子を殺して自害した。

14日に高山、中川隊は丹波亀山城を落とし、光秀の長子三慶を殺したため、光秀の血脈は絶えました。

山崎の戦いの勝敗を分けたポイントとは!わかりやすい解説をしてみた!

いかがでしたでしょうか。

今回は山崎の戦いを簡単にご説明いたしました。

一時的にせよ天下を取った光秀。

これから天下人となる秀吉。

やはり天下人になる秀吉の器量には、光秀は一歩及ばないような気がします。

しかし天下を取る人は違いますね。

大軍を編成する原因となった中国大返し。

秀吉の勝利は大返しにつきると思います。

山崎の戦いの秀吉勝利の方程式は以下のようだと思います。

毛利と和睦→大返し→尼崎での参陣呼びかけ→4万の大軍編成に成功

恐らく秀吉はここまで計算していたのでしょう。

恐るべき男ですね!

最後までお読みいただきありがとうございました。